その48.
僕には大嫌いなものが3つあるんだよ。
みんな、同じくらい大嫌いだけれど、まず、ドクターだ。
香港で僕のたまたまを手術で取られた時の恐怖とアメリカに来てからドクター
に爪を切られて、血がピューって出た時の痛さ。ドクターはいつも、僕に痛い
ことをするから大嫌いだ。
だから、「ドクター」って聞いただけで後ろ足がブルブルと震えてしまう。
予防注射でドクターのオフィスに連れて行かれると、待合室でイスに座ってい
るマミーの膝の上に飛び乗って、マミーにしがみついてブルブル震えてしまう
んだ。
看護婦さんたちは初めて僕がマミーにしがみ付いて震えているのを見て、
「いやーねえ。赤ちゃんにしてはタマタマは大きすぎるわよ。本当に甘えん坊
なんだから」と言って大笑いしたんだ。
構うもんか、怖いんだから仕方ないじゃないかー。
その次は、ピカピカドーンの雷だ。
小さい時から、大嫌いだ。夜、ピカピカが始まると、ベッドでマミーとダデイ
の間に潜り込んで、マミーのわきの下に顔を入れて、抱いていてもらう。
お昼間にピカピカ来た時は、地下の物置の奥に隠れる。
でも、一番怖いのはマミーが怒った時だ。
これは、誰も止められないからね。この頃、アンマリ怒らないけれど、僕が外
でクンクン色々なものを嗅ぎまわっていて、時々、他の犬のしたシーシーをな
めちゃう事があるんだ。
これは、このシーシーをしたのはどんな犬なのか分析しているんだけど、マミ
ーは「汚い、誰かの病気が移る」って怒る。僕の頭をボカって殴るんだ。
そうすると、チチも怖くて、自分が怒られているような気になって、シュンと
なって散歩の時はずーーーと後ろからトボトボと歩いてくる。
マミーに「チチはグッドガール。マミーは怒っていないよ」と言ってもらうま
で、トボトボと頭をうなだれて歩くんだ。
その後は「ソリーしなさい」って言われるから、マミーに頭を押し付けて、御
免なさいって謝るんだ。
そうして、あの事件が起こったんだよ。
イタミ家全員はお庭に面したマミーのオフィス兼ファミリールームにいた。
マミーはジョキジョキと生地を切って何かを作っていた。ダデイはテレビのス
ポーツ番組を見ていた。
僕とチチは側で寝そべって、平和なイタミ家の一日をノンビリ過ごしていたん
だ。
そこに電話が掛かって来た。ダデイの弟のデックさんからだ。
「うんうん、そのチームか。うんうん、金にはいとめは付けないから、幾らで
もいいよ」
と何か話している。電話が終わってから、マミーが聞いたんだ。
「何の話?」
「ああ、カレッジバスケットボールのリーグ戦のプールだよ。グループで賭け
るんだ」
「それで、金に糸目は付けないって言ったの?」
「うん、たいした金額じゃないからね」
そこで、マミーはぶち切れたんだ。
ダディの趣味は賭け事。毎週アメリカンフットボール、バスケット、スポーツ
の試合ならなんでも賭けるんだ。デックさんも銀行家だけど、やっぱり、同じ
だ。ダデイのお母さん、つまり僕のおばーちゃんも大のギャンブル好きで一年
に何回もラスベガスに行くんだよ。
今まで一度も、マミーは文句を言わなかったけれど、今回は別らしい。
「ちょっと、ダディ、私は生活費のチェックをずっと、貰っていないのよ。そ
れなのに、馬鹿ゲームに金に糸目は付けないで賭けるだってー。バカやロー」
と怒った。これを説明すると、ダディの勤めていた会社が二年前のクリスマス
の2日前に突然倒産してダデイは無職になちゃったんだ。仕事を探したけれど、
ダディの年はリタイアーする年齢に近かったから中々見つからなかった。その
時、マミーがダディの仕事が見つかるまで、生活費のチェックはいらないとオ
ファーした。それから、ダディは友達のビルさんの会社で働きはじめてすっか
り、その会社の人になっていたんだ。でも、ダディはマミーに正式に社員にな
った事も年末にボーナスを貰って居た事も話さなかった。
「え、だって、マミーはチェックをくれって、言わなかったじゃないか」
「なにー、会社が倒産してビルの所で働き始めて15ヶ月よ。15ヶ月、ダデ
ィはチェックをくれなかったんだ。私はダデイが大変だと思ったから、チェッ
クはいらないって言ったのよ。ボーナスも貰っていたのに、どうしてちゃんと
しないのよ、お金の問題じゃないんだ。言わなければ、渡さない、馬鹿バスケ
ットボールには金に糸目は付けないのに、私には生活費をくれないのが、おか
しいっていっているのよ。このクソジジー。もう、日本に帰って、二度と帰っ
て来ないから。後で、後悔しても遅いからね」
もう、マミーは機関銃だった。ダデイはタジタジして口答え出来ない。
口では、マミーには勝てないのは良く知っていたからね。
僕も、わー、まずいぞ。マミーが怒り始めた。久しぶりだったので、僕もチチ
もビビッたよ。
それからも、マミーの怒りは治まらない。
そのまま、ダディとは、口を利かず、夜になった。
こうなると、どうしようもないんだ。怖くて誰も手を出せない。
9時になってダデイはそうっと、二階に上がって行った。
僕とチチもいつもは、マミーが「ネンネ タイム」って言うまで、側で待って
いるけれど、ダディについて、二階のベッドルームに引っ込んだ。
そのまま、ダディも僕もチチも眠っちゃったんだ。
夜中にふと目が覚めるとマミーが居ない。ベッドの中にいないんだ。
今年でダディ達は結婚10周年、僕が来て9年目。これは、はじめての経験だ。
マミーがベッドにいないのは!
僕は、パニックになった。大変だ、マミーが家出したー。
僕は、1階のファミリールームやリビングルームに駆け下りて、マミーを探し
たけれど、いない。
地下室も全部探したけど、マミーはいない。やっぱり、家出だー。
ベッドルームに戻って、ダディの上にジャンプして顔を舐めて叩き起した。
「大変だー大変だー。マミーがいないよ。家出したんだ。ドアを開けて、ドア
を開けて」
とガウガウとダディに訴えた。
ダデイはうるさいなあと言いながら、玄関まで来てくれて、ドアを開けて、外
に出してくれた。
僕は庭も探した。門の木戸も押して開けて、外にも出て、マミーを探した。
でも、いないんだ。
僕はガックリしてしまい、ダディの後について、家に戻ったけれど、マミーの
いないベッドには戻りたくないから、玄関のドアーの前でマミーを一晩中待っ
たんだよ。
朝になって、ダディはいつもの様に、森にジョッギングに連れて行ってくれた
けれど、帰ってきてもマミーはいない。ダデイが朝ごはんをくれても、すっか
り、僕は落ちこんでいた。
「チチ、マミーが昨日の晩、家出しちゃったんだよ」と言うと、チチは
「馬鹿だねー、お兄ちゃん、マミーは隣のゲストルームで寝ているよ」
「えー、そうだったのか」
僕は、余りのパニックでちゃんと臭いがするのに、二階のゲストルームだけは、
探さなかったんだ。
アー良かった。僕は、ゲストルームのドアを体で押したけれど、鍵が掛かって
いるので開かない。
仕方がないので、チチとドアの前で、マミーが出て来るのをじっと、待ってい
た。
お昼前、マミーが出てきた。
僕とチチはジャンプしてマミーに飛びついた。良かった、良かった。家出じゃ
なかったんだ。
マミーは昨日の事は何もなかったかのように僕たちを散歩に連れて行ったり、
買い物に出かけたりしたんだ。
夜になり、ダディが仕事から帰って来た。花束を抱えて。
「ただいまー。ごめんよ。マミー」とその花束をマミーに渡して謝った。
チェックもモチロン、マミーに渡したんだ。
めでたし、めでたし。だって、離婚する時は、マミーは僕を、ダディはチチを
取る事になっていたから、チチと離れ離れになっちゃうもの。なんたって、平和が一番だ。
つづく(次号掲載は9月13日を予定しています)
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